研究概要
近年,日本の伝統文化を世界に発信する取り組みが盛んである.その対象は食文化や工芸品,演劇など多岐に渡る.寿司や蕎麦などの食文化や焼き物などの工芸品を実際に体験したことがある日本人は多い.しかし,能や狂言などの伝統芸能の分野となると,実際に鑑賞したことがあったり,具体的にどのようなものなのかを説明できる者は少ない.また,伝統文化の担い手が不足しており近い内に文化が途絶えてしまう可能性が危惧されるものもある.これらの伝統芸能が世間に広く知られていない原因の 1 つに“触れられる機会”が限られている点があると考えた.例えば能は上演されている能楽堂の絶対数が少なく,また公演期間も短い.つまり,場所も時間も限られていることが触れられる機会が少ない.そして,そうした少ない機会の中で興味を持っても,習える場所も少ないため担い手・後継者が育たない.これまでの伝統芸能に関する研究の多くはその文化の分析・保存が目的であり,普及を目的にしたものは少ない.そのため,日本の伝統文化の一つである能を取り上げ, 先に挙げた問題を解決し,普及に貢献することを目的として,時間と場所を選ばず能を鑑賞・体験できるシステムを作成した.本研究では,このシステムの問題点を解決し,さらに新しい機能を実装することで体験の質を向上させた.具体的には,仕舞の特定の動作を指す「型」の説明を追加し,さらに舞台の床に番号を振り,その番号を使用して仕舞の次の動作を説明する字幕を作成した.また,能面を付けた状態の視界を体験できる機能を新しく実装した.そして実験を行い,得られた結果から,床の番号の視認性を上げ,鏡の間,切戸口を新たに再現した.
VR能体験システム
本システムは,任意の視点から能を「鑑賞」することができる機能と,舞台上で手本を見ながら実際に能を「体験」できる機能を持つ.ただし,能は 1 曲あたり1時間以上かかるものであるため,これを鑑賞・体験し評価する実験を行うことは現実的ではない.よって,本研究では能の1部分を切り抜いた「仕舞」を対象とする.また,仕舞の中でも比較的短時間かつ簡単な動作で完結する,初心者向けの曲として「鶴亀 キリ」を選択した.「鑑賞」機能は,筆者が舞う仕舞をモーションキャプチャを利用して記録し,図 1 に示す手本アバタを用いて VR 空間上で再生したものを体験者に見せるものである.「体験」機能は,被験者に HMD とそれに対応した左右コントローラー及び VIVE トラッカー(2018)を装着させ頭・両手・両足の 5 点トラッキングで図 2に示す人型アバタに反映させ VR空間上に表示する.被験者は表示される手本アバタを見ながら動きを真似することで仕舞の動きを体験することができる.体験中にトラッカーが比較的隠れにくい曲であるという点も「鶴亀 キリ」を選曲した理由の 1 つである.また,VR を使用することで得られる臨場感を増加させるため,京都にある金剛能楽堂内部の実際の能舞台の画像を使用して VR 空間に能舞台を再現した.図 3 は実際の能楽堂を撮影したもの,図 4 は VR 空間内に再現した能楽堂の画像である.鑑賞は再現した能舞台の周りにある客席から,体験は能舞台の上に立って行う.「鑑賞」の際に客席から見ていた能舞台の上に実際に立っているという「特別感」を被験者に与えることを狙いとして,能舞台だけでなくその周辺の客席まで再現した.


システムの課題
作成した体験システムには大きく分けて2つの課題があった.
1つ目は,VR酔いや HMDの装着に慣れていない人の使用・実験時間の短縮を考慮して,実際に能楽堂で行われているような能の体験会の手順から,仕舞で頻出する所作を予め解説・練習させた上で真似させる,事前説明に当たる部分を省いたため,体験システムの「手本を見ながら実際に仕舞を体験する」において難易度が高くなってしまっていた. 2 つ目は,使用した HTC VIVE PRO が有線で PC と接続するため,体験中にコードが体に巻き付いて妨げになってしまっていた.
機能追加と改善手法
手本の模倣において難易度が高いことを解決するために,動きの手順と仕舞の型についての説明を追加した.体験システムのうち,手本を模倣する段階において,仕舞のセリフ等を指す「謡い」を字幕として表示していたが,図 5 に示す通り舞台を 1~9 までの番号で区切り,図 6 に示すように「◯番へ弧を描きながら向かう」といった形で場所と動作を指示する字幕も追加した.その中でも文章での説明が難しいものは,図 7に示すように模倣の前段階で手本のアバタを提示した.今回は「鶴亀 キリ」に複数回登場するマワリカエシとヒラキという2つの仕舞の「型」についての説明を行った.この 2 つの型の名前は,「◯番へ行ってマワリカエシ」のように動作を指示する字幕中に登場するため,型の説明である程度覚えさせた後に実験手順④においても複数回言及することで急に登場する普段見かけない単語に対する混乱を可能な限り減らす工夫を行っている.ヒラキとマワリカエシ以外にも予め知っておくことで,手本の模倣時に知らない動きではなく「決まった動きを行う」という意識を持たせ, 難易度を低下させることができる型は存在する.しかし,説明する型を増やすことは実験にかかる時間を増加させ被験者を疲労させることに繋がり,また「型」の動きが可能になった後は字幕中に登場する型の名前に対して反応する必要があるため,「知らない単語の連続」が起こってしまう.そのため,型の説明を増やすべきであるという明確な根拠が得られるまではヒラキとマワリカエシの 2 つにとどめておくことにした.さらに,面を付けた状態を体験できる機能を実装した.能面は,その能面の種類によって,目の部分のみ穴が空いているものや口や鼻の穴の部分にも穴が開いているもの,それぞれの穴の大きさも変わる.しかし,口などの部分に穴がある場合も目のみの場合と劇的な違いはない.そのため,目のみに穴が空いている場合の能面の視界をビネット効果によって再現することにした.ビネット効果とは,画像の四隅を中心部よりも暗くすることで注意を中心部へ向けさせる画像加工の手法である.VR 空間内を移動する際にビネット効果を発生させることで,VR 酔いを抑制させる使用法があるが,本システムでは中心部以外が暗くなるという状態が能面を付けた際の視界に似ている点を利用している.図 8 に能面を付けた状態の体験者からの視点を示す.




実験
改善したシステムの評価のために以下の手順で実験を行い,アンケートを行った.
① 能「鶴亀」と仕舞についての簡単な説明を行う.
② 両足にトラッカーを付け,五点トラッキングで体験者の体を VR 空間上に反映し,
能舞台を自由に歩かせる.
③ ヒラキとマワリカエシの2つの型について VR 空間上で練習させる.
④ 舞台上から鶴亀を鑑賞させる.このとき,仕舞の中でヒラキとマワリカエシが使わ
れている部分について言及しながら鑑賞させる.
⑤ 鶴亀の手本を見ながらその動きを真似させて仕舞を体験してもらう.
⑥ 能面の視界を再現した状態で再び鶴亀の手本を真似してもらう.
ただし,先に書いたように VR 酔いと HMD を装着する事による疲労を考慮し実験一
回あたりの時間を短くするため,また単純に能面の視界を体験してもらうことを目的と
しているため手順⑥は仕舞の開始から約 1 分ほどで終了する.
実験の後,1 を全くそう思わない,5 をとてもそう思うとして,1~5 の 5 段階で以下
の項目のアンケートを行った.各項目で,数値が大きいほど本システムとしては良い結
果であると言える.また,質問 6 と質問 7 は自由記述とした.
質問 1 実際の舞台に立った時の感覚を知ることができたと感じた.
質問 2 能面なしの状態で手本を見ながら同じ動きを真似ることができた.
質問 3 型の説明は手本の動きを真似るのに役立った.
質問 4 番地で動きを表示する字幕は役に立った.
質問 5 今回のシステムのように VR 上で気軽に能を鑑賞できるならば,他の演
目も見てみたいと思う.
質問 6 能面を付けた際の視界を体験してみてどう感じたか.
質問 7 何かほしいと思った機能,良いと感じた機能,改善点はあるか.
実験は 6 人に行い,アンケートの結果は図 9 のとおりだった.

実験結果
質問 1 は,今回追加した能面の視界を体験する機能が舞台上での体験に何かしら影響を与えている可能性を考慮したもので,前回の実験と同様に全員から 4 以上の評価が返され,特に変化は無かった.質問 2 から質問 4 は,追加した型の説明と次の動きを説明した字幕が,その目的である手本の模倣の難易度低下に貢献しているかを調べるものである.結果は質問 2 については前回の実験と比べて 4 の評価が増え,質問 3 の型の説明については全員から 5 の評価が返された.質問 4 では 6 人中 5 人から 4 以上の評価であったが,一人だけ 1 のネガティブな評価であった.体験者に原因を聞いたところ,手本のアバタを常に見て真似るため,下に出ている字幕が見えにくいことが述べられた.また,4 の評価を出した体験者からも,真似ることに集中し始めると字幕に意識を向ける余裕が無くなるといった問題が挙げられた.質問 5 は,体験部分の難易度が下がることで本システムを用いて能を再度鑑賞したいという気持ちに変化が出るのか調べたものである.結果は前回の実験と全く変わらなかったことから体験部分と鑑賞にはあまり関係性は無いと考える.質問 6 は,実際に能面を付けた人の多くが述べる「とても視界が狭くほぼ見えない」という感想を期待してのもので,全く違う感想が多く出ていれば能面を付けた際の視界の再現ができていない可能性が高くなる.回答は,「視界が狭く自分の現在の舞台上の位置を把握するのも難しい」など期待どおりの感想が返された.ただし,能面の視界を再現した状態で手本の真似をすることにおいて,「手本のアバタだけは明るく表示してほしい」という要望も出た.能面の視界で手本を見させてその視界の狭さや,能面を付けている実際の能で舞台上の他の人間を認識することの難しさを知ってもらうことを意図した手順⑦であるが,数回経験しただけの仕舞を,急に制限をかけた状態で行うのはかなり難しいため,手本のみを明るく表示する機能の実装は一考の余地がある.質問 7 では,「仕舞を自由な視点から観察できるのが面白いと感じた」,「手本が常に横に表示され動きの後追いがしやすかった」,「鏡で常に自分の動きを確認できるのが良かった」といったシステムそのものに対する高評価や「型の説明がとても役に立った」といった今回追加した機能に対する高評価が出た一方で,「役に立ったのでもっと型の説明が多くてもいいと思った」,「次の動きに合わせて床の番号が光るなどして強調されたり,字幕のみで動きを解説するのではなくライン等で次の動きをガイドしてほしい」,「現在の自分の動きを確認する手段が正面の鏡以外にも欲しかった」といったさらに難易度を下げる工夫を求める意見も多く出た.
今後の課題
実験の結果考察から,今後の課題について検討した.質問 2 から質問 4 で出た,「手本のアバタに集中すると下の字幕に意識を割けなくなる」は,字幕では簡易な説明しか示さないため,むしろ詳細な動きは手本を見て真似てもらうことが望ましいので変更は行わないこととした.質問 6 で出た「手本のアバタだけは明るく表示してほしい」に関しても,「能面を付けている状態の視界の体験」を意図した機能であるため,手本のアバタのみを見えるようにしては容易に真似できるようになり,無意味なものとなってしまうためこれも変更は行わない.質問 7 の「型の説明を増やすこと」は,頻出する型はヒラキとマワリカエシ程度なため追加は行わない. 「正面以外にも鏡を設置する」を実行した結果,現在の自分の位置が分かりにくくなり単純に逆効果だった.「次の動きに合わせて床の番号が光るなどして強調されたり,字幕のみで動きを解説するのではなくライン等で次の動きをガイドしてほしい」という意見は,床に強調された番号を大きく表示することで反映することにした.図 10はその様子を舞台直上から撮影したものである.この強調された番号は仕舞の進行に合わせて出現と透明化を行う.具体的には,プログラムの開始から何秒後に出現し透明化するかを予め決めておき,手本のアバタが動く先に一瞬早く表示されるように調整する.
また,より能に興味を持ってもらうため,VR ならではの工夫として「通常ではできない体験」を追加することにした.具体的には,鏡の間と切戸口と呼ばれる,演者の待機場所を再現した.図 11,図 12,図 13にその様子を示す. 図 11 において赤い円で囲まれているのが鏡の間である.能において,主に主役およびその従者などがここから登場・退場を行う.青い円で囲まれているのが切戸口であり,舞台上の小道具の回収など,能を円滑に進める役割を持つ「後見」と呼ばれる役の者を始めとしてあまり目立ってはいけない場合に切戸口から出入りすることが多い.これに際し,VR 空間上でコントローラーを用いて移動を可能とする機能を実装したが,これが VR 酔いを招くものなのかについては調査が必要である.能を鑑賞する際,鏡の間と切戸口の内部は客席からは見えないよう工夫されているため,その内部を体験できるようにすることで「通常では見ることができない」という特別感を与えることができると考えた.




まとめ
本研究では,能を手軽に鑑賞・体験できることを目的として作成した VR 能体験システムの問題点を改善し機能を追加した.体験部分を主として難易度を下げるよう改善を行い,高評価を得ることができた.その一方で,更に体験を補助する機能を求める意見も多数見られた.また,今回無線で HMD と PC を接続するために Meta Quest 2 を使用し,体験者の体を VR 空間上に表示するために VIVE トラッカー(2018)を用いてトラッキングを行ったが,本来サポートされているものではないため,キャリブレーションをしてから時間が立つとトラッキングの精度に誤差が出るドラフトが発生したり,VIVE トラッカーを認識するためのベースステーションとの接続がやや不安定であるなどの問題も新たに発生した.さらに,VR 空間上での能舞台と現実空間での体験場所の広さが対応していないことによって机などにぶつかりかけるといったこともあった.そして,得られた評価や意見をもとに,実装した機能を吟味するとともに,システムに改善した.体験部分の難易度の低下を目指し,次に向かう床番号を手本のアバタの動きに合わせて強調表示されるよう変更.また、更に能文化への興味を誘発しやすくするための「特別感」の付与を目的に,演者が舞台袖で待機する鏡の間・切戸口の 2 箇所を新たに VR 空間上に再現した.今後の実験で変更・追加した内容についての評価を行っていく.
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